【続き】わからない、とは言っても放棄はしていない
2010年4月4日 For Meつもりです。
大体、普通に会話するときであっても言葉のチョイスに相手の気持ち(自分が相手を観察して推測した相手の気持ち)は反映されますよね。
少なくとも俺は反映されている感覚はあります。
また、そんな微妙なところでなくともダイレクトに『こんな言葉が欲しいのではなかろうか』『こんな意見はどうだろう』なども考えます。
俺は相手に対して好意的であれば、結構そのまま言います。
ただ、『自分の推測が正しいだろう、そう思うのが普通である』という見方で会話しているのと『あくまでも自分が勝手に推測しているのであって違うことのほうが多い』(だいぶ極端に言っていますが)と思って会話しているのとでは、推測が違っていたときの対応に差が出ると思うのです。
前者は自分の思い違いが発生すると『さっきああいったじゃないか、こういったんだからこうだよね?』と勝手な推論を押し付けてくる傾向がある、と思っています。
つまり、自分の非を認めにくい、ということです。
対して後者は勿論、自分が勝手に推測して、間違っているとも思っているので自分に問題がないか、勝手な判断を下していないか、という風に考えるのではないかと思います(少なくとも俺はそうします)。
まぁなんというか、俺はこういう風に言っていますけれど、これもこれでだいぶ相手の気持ちの推測が発生して、俺が勝手に判断を下している部分も多々あるのだろうなぁ、というのは認めざるを得ません。
それに恐らく多くの人は(俺も含めて)両方を兼ね備えていて、ある閾値で分けているだけであって、どちらか1つしかもっていないという状態がないので肯定も否定もしかねる(自己を否定することを避けるため、ではないかと自己を推測)のではないかなぁ、と思います。
往々にしてこういうものは自分に帰ってくるんですよね…。
大体、普通に会話するときであっても言葉のチョイスに相手の気持ち(自分が相手を観察して推測した相手の気持ち)は反映されますよね。
少なくとも俺は反映されている感覚はあります。
また、そんな微妙なところでなくともダイレクトに『こんな言葉が欲しいのではなかろうか』『こんな意見はどうだろう』なども考えます。
俺は相手に対して好意的であれば、結構そのまま言います。
ただ、『自分の推測が正しいだろう、そう思うのが普通である』という見方で会話しているのと『あくまでも自分が勝手に推測しているのであって違うことのほうが多い』(だいぶ極端に言っていますが)と思って会話しているのとでは、推測が違っていたときの対応に差が出ると思うのです。
前者は自分の思い違いが発生すると『さっきああいったじゃないか、こういったんだからこうだよね?』と勝手な推論を押し付けてくる傾向がある、と思っています。
つまり、自分の非を認めにくい、ということです。
対して後者は勿論、自分が勝手に推測して、間違っているとも思っているので自分に問題がないか、勝手な判断を下していないか、という風に考えるのではないかと思います(少なくとも俺はそうします)。
まぁなんというか、俺はこういう風に言っていますけれど、これもこれでだいぶ相手の気持ちの推測が発生して、俺が勝手に判断を下している部分も多々あるのだろうなぁ、というのは認めざるを得ません。
それに恐らく多くの人は(俺も含めて)両方を兼ね備えていて、ある閾値で分けているだけであって、どちらか1つしかもっていないという状態がないので肯定も否定もしかねる(自己を否定することを避けるため、ではないかと自己を推測)のではないかなぁ、と思います。
往々にしてこういうものは自分に帰ってくるんですよね…。
他人に干渉するな、と要求することは、そういって、他人に干渉している。
自分が特別だと思っている、それ自体が特別でない。
意識とは不自由なものだ。
こうして、自分のアイデンティティは、素直な思考によって不可逆的に軟弱になっていく。
- 君の夢 僕の思考 <森 博嗣>
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